karuna's story

高機能自閉症スペクトラム。感覚過敏。欧州育ち。サードカルチャーキッズ。シャーマン。カードインスピレーション。夢使い。

発達障害あるある①「そんなこといったら私も発達障害だよ。」の巻

別に次があるわけではないけど、ありそうなので①とつけてみた。

とてもご無沙汰している人に街でばったり会って声をかけられた。

お互いに近況を少し報告しながらも、主には私の最近の息子との話になった。

その流れで「実は親子で発達障害だったんだということがわかった」と

カムアウトした。

すると相手は「えー」と信じられないというような表情になる。

こういうところがしんどいんだ、とかこだわりが強いんだなどと少し具体的な話をすることになる。

「そんなこといったら私も発達障害だよ。」とその人はいった。

げんなりする。

とにかく私が言語能力があり、高機能な部分があるので信じられないのだろう。その人の「発達障害者」もしくは「自閉症」の人のイメージと私は全く噛み合わないのだろう。息子のことも、おなじような感覚なのだろう。

でもその反応が当事者にとってどれだけ傷つき、げんなりとした気分にさせるか、その人はきっと想像もつかないだろう。

息子の思春期についても、「15歳はいろいろある年齢だしね」と一般化されてしまうことにこれまでもどれだけ歯がゆく、孤独な気分になっただろう。

自分にも偏りがあり、そして息子にもあり、その上でホルモンの変化や成長に伴う思春期があり本当に大変なのに。

それは専門家であってもわからない。現場で当事者とともに励まし、サポートしてくれる人たちはまだ想像がつくので反応が違う。その独特な辛さを理解されていると感じる。その人たちが「私もそういうところありますよー。」と言ってくれることには安心感さえ感じることもある。

多分、「私もそうだよ。」という言葉の裏に、

「なんでも障害を理由にするのは思い込みなのではないか。」という気持ちや

「だれだって多少の生きづらさはあるよ。」という、みんな大変です的な同調圧力

私を障害者としてどう扱えばいいのかという未知なるものへの抵抗感とか戸惑いとか、まぁいろんな気持ちがあるんだろうけど、それは全てその人の問題を投影されているので私はただ不愉快で困るだけなのだ。

そういう雰囲気と反応になると、こちらはなぜか一生懸命に説明をするような話になる。どんどん自己開示しなくてはいけなくなる。そしてドツボにはまっていく。

言うんじゃなかったと思う。

「こんどゆっくりお茶しようねー。」といって別れたけど、

絶対に疲れるのは目に見えている。

 

運良く、その直後にお世話になっている発達障害の相談室で面談があったから聞いてもらえた。ご自身も発達障害だという相談員の先生は、一緒になって不愉快さをあらわにしてくれた。「よくあることだし、それは当事者にとってはとても傷つく。この大変さを一緒にされたくないという気持ちになる。だから、そういう人とは物理的に距離をおきましょう。でないと傷つくし疲れてしまいますよ。」と

現実的なアドバイスをくれた。

 

私はなかなか断るということが難しいので、こういうルールのような具体的な方法で示してくれると、感情は特性と性格からくるものだと理解できて扱えるようになる。

こういうタイミングのよさは、私は自分の強みのほうの特性だと思っている。

 

「私もだよ。」という心理は、きっと異なるものへのエッジ(抵抗感、不安)をカバーするために共通点を探してつながろうとするという心理の働きかもしれなけど、わかりっこないんだから、「聞いてもいい?」と具体的に質問してもらったほうが楽。

そして「そうなんだね。」とわからないなりに受け止めてくれたほうがよっぽどありがたいのだ。